ゲバルト時代を読んで
もしもあの時代のことを私が書くとしたら、題名は「ゲバルト時代」ではなく「闘いのとき」とかになっているだろう。まさに題名は全てをあらわす。作者、中野正夫にとって六十年代後半から七十年代前半にかけての反戦ー反体制運動の高まりは、ゲバルトによってのみ総括できる(する)時代なのだ。
当時のデモや街頭闘争に参加した者にしかわからないであろうあの「よーしやるぞ」という胸の高鳴りや、緊張感、恐怖感をこの本を読んで久しぶりに思い出した。私自身は七十年闘争から本格的に闘いの渦中に飛び込んだので、68年の新宿騒乱闘争は話しに聞くだけでどういう闘いだったのかは詳しくは知らなかった。だから「目に入ってきたのは生まれて初めてのすごい光景だった。新宿通りは車も都電も通れず、とにかく人があちらこちらにギッシリ群れていた。その合間を縫って、中核派をメインに各派が車道の中央をデモ行進していた。一種異様な、まさに騒乱的なウワ-ンという唸るような状態だった」とか、日大闘争のシーンで「デモ隊は掛け声とともにザッザッザッとリズムをきざんで白山通りを進んだ。その時信じがたいことに、歩道も車道も地震のようにボヨーン、ボヨーンと波のように地面が揺れたのだった」とか、その場にいた者にしか経験できない感覚を遠く思い出したのだった。
だが当時のことを思い出すだけで終わるのなら良いが、『あとがき』で当時の「革命ごっこの親玉たち」が相も変わらぬバカな言動と出版などをしている姿を見聞きするにつけ、こいつらの脳みそはどうなっているんだ?・・・内ゲバやリンチで死んだ人々のことをこいつらはどう考えているんだろうか」と書き始めた動機を語っているのだが、ここにこの本の反動性を垣間見てしまうのだ。つまり当時の闘いの息吹きを感じることはあっても、闘いの意義を見いだすことはできない。そう、ゲバルト、一時の感情のみの肉体派でしかなかったおのれを総括しようともしていないのだ。自分を正当化するためにのみ今闘っている人を非難罵倒する。一生を闘いのなかで生きる者たちへの敬意もない。あなたこそ、内ゲバやリンチで死んだ人のことをどう考えているのか?
最後に「人間はみんな好きなように意味も判らずに勝手に生きるのであって、それで言いと思う」と結んでいるが、だったら誰が何を言っても無駄じゃん。アー暑い。
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